正豊山 瑠璃光院 光蓮寺





1.光蓮寺の由来

 「正豊山瑠璃光院光蓮寺(しょうほうざん るりこういん こうれんじ)

  瑠璃光如来は薬師如来(東方浄土の主)のことである。(西方浄土の主は阿弥陀如来)

  「瑠璃」は梵語の音を漢字に当てはめた音写である。

 開山は光蓮社照譽正豊上人(慶長7(1603)没)による。

三世の曜蓮社日譽卓辧上人(貞享元年(1684年没)はこの地に遷寺された。また後に安楽寺を開山された。



         御本尊  薬師如来






江戸時代末期の再建の寄付を依頼した文書には

「昔、和屋村にあった七堂伽藍の大雷音寺が火災に遭い本尊の薬師如来が火炎を避けて飛び去りこの地に止まったとの古老の口伝えがあるので、照譽上人は縁があると信じて瑠璃光院光蓮寺を開山した。時流れて弘化五年にまた焼滅し既に60数年が経ち、ここに大仏殿を再建した重源にあやかり再建の思い興り一紙半銭の奉賽を願い奉る。」

とあり、また、明治初期から中期に書かれた由緒書には

「・本尊 薬師如来 その前には阿弥陀如来が祀られていた。
  ・由緒 創建年度は不詳。寺伝では七堂伽藍の大雷音寺に法電院、法雨院、善法寺、閑淨寺等の建物があったが、永禄年間(1558-1570年)に織田信長の兵火で焼滅。塔頭の薬師如来は灰燼に埋もれたが里人が信仰していたのを天正元年(1573年)光蓮社照譽上人を迎え萬年山の麓に一堂を創設し薬師如来を本尊とし「正豐山光蓮寺」と称した。三世の後、卓瓣日譽遵益一聲承認が」現在の豊原に遷寺した(寛永17年(1640年))。安永3年(1774年)の火災のため伝記を失くす。同年より、住職の誓譽遵益上人が自費を投じ堂を再興した。寛政6年(1794年)誘譽萬海上人が本堂を改築。弘化3年(1846年)また火災に遭うが翌年謙譽上人が再建に着手し明治15年(1882年)に本堂を落成した。(資料はこの時のものと思われる。)



2.光蓮寺の脇門

 光蓮寺の脇門は念佛寺の山門が豊原学校の通用門として移築され、明治19年に光蓮寺に移された。

 

光蓮寺 脇門                              脇門修理時に発見された 鎧塀の板の裏側の記録

                                     

明治十九年

第一月造立

此門者(ハ)旧念佛寺

表門ニシテ豐原

學校通用門ナ

リ當寺住職

真野喃譽申請

建立之

棟梁北村作十郎






境内には江戸時代の儒学者 奥田三角にまつわる史跡が多く残されている。
                                (奥田三角のページへ)



お問合せ先: 揥水まちづくり協議会 (☎ 0598-28-2675)






戻る

inserted by FC2 system