櫛田の曽塚

 
昔むかし、櫛田の里に曽塚某という武士が住んでおり、度会郡の古市(伊勢市)には伊藤某という武士が住んでいた。この二人はともに平家の家来であって、大そう仲がよくて、「生きるのも死ぬのも、かならず共にしよう。」と、かたく誓い合っていた。

 その頃に京都で保元の乱がはじまり、伊藤は召されて京に上った。曽塚も一緒に行きたかったが、仕方がなくて櫛田で日を送っていた。その後の京のいくさの様子は何もわからなかった。曽塚はただ、伊藤のことばかりを心配していた。やがて、いくさが終わったと聞こえてきたのでほっとした。その後は伊藤が今日来るか明日帰るかと待ちに待った。いくさをした人が追々帰ってきたが伊藤はなかなか帰らなかった。

「こんなに待っても帰らんのでは、伊藤は戦死したにちがいない。」「ともに死ぬのを約束した友だ。自分だけおめおめと生きておっては男子の恥である。」曽塚はこう考えて、みごとに腹を切って死んでしまった。

 その後まもなく伊藤が元気で帰って来た。
「さぞ曽塚が待っておろう。会うたら何から話そうか。」と、心をはずませて櫛田の里に立ち寄ると、曽塚が待ち切れずに切腹したと聞いた伊藤は、急に目の前が真っ暗になったようにおどろき悲しんだ。

「曽塚よ、早まったぞ曽塚よ。なぜ、今少し待ってくれんだのかよー。」伊藤はこう言って、曽塚の墓をかき抱いてなげくのであった。 伊藤は、亡き曽塚のため、櫛田に一堂を建て、曽塚の木像を彫らせて安置し、曽塚庵と名づけて、その御霊をねんごろに弔ってから、古市へ帰ったのであった。

 その後、二百年あまりたった室町時代のことである。櫛田の里の長が井戸を掘ったら石棺が出てきた。中には器や骨とともに、立派なよろいかぶとや刀があった。墓誌を見ると曽塚云々と書いてあったので、里の長老は、「曽塚殿と言えば、昔の武士の内でも二人とない立派なお方であるぞ。これは大切なかたみの品々だから、よく気をつけて扱えよ。」と、人々にいいつけるのであった。そして、この品々は櫛田にある大きなお寺に奉納されたので、村の人々はこれを見て、昔の櫛田に立派な武士のあったことを知ったという。また、その頃には曽塚の子孫の人も残っていたそうである。

      後註 ○多気窓蛍、伊勢明倫人物抄による。

          ○曽塚については今の櫛田には何の口伝もない。これも消えて行った前時代の昔の民話である。




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